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感じる人びと 第2回 手で「感じる」 光が透けるまで岩を薄く磨くひと

二宮敦人

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Illustration もとき理川

薄片技術者
平林 恵理(ひらばやし えり)

国立研究開発法人産業技術総合研究所
 地質調査総合センター
 地質情報基盤センター 地質標本館室 地質試料調製グループ 主査



<取材協力>

理学博士 内野 隆之(うちの たかゆき)

国立研究開発法人産業技術総合研究所
 地質調査総合センター
 地質情報研究部門 シームレス地質情報研究グループ 研究グループ長

 己の感覚だけを頼りに、手作業で岩石を薄く磨き上げていく仕事がある。その薄さたるや何と0.03ミリメートル、千円札の3分の1以下だというから驚きだ。

 どれほど繊細な指先の「触覚」があればそんなことができるのだろう? そんな興味から、僕は産業技術総合研究所の門を叩いた。茨城県つくば駅からタクシーで15分ほど。地質標本館はどこか大学の構内を思わせる静謐な雰囲気である。薄暗い廊下を歩いていくと、ふいに町工場のような一角が現れた。エプロンをつけた地質試料調製グループの皆さまが迎えてくれる。

「ようこそようこそ、いらっしゃい」

 一際眩しい笑顔を浮かべている、やや茶色がかったショートカットの女性が、主査を務める平林恵理さんだ。挨拶もそこそこに、とんでもないことを言い出した。

「では、早速やってみましょうか」

「えっ?」

 平林さんは微笑み、そばの机から灰色の岩を掴み上げる。

「この石、花崗岩(かこうがん)ですけれど、これを使いましょう。ちょっと説明しづらいところがあるから、実際にやってもらうのが一番だと思いまして」

 さあ、後には引けなくなった。

そっと触れただけで割れる岩

「色んな研究者が岩石を持って来るんです。これ、モロブタというんですが、ここに入れて伝票用紙を貼って」

 深めのスチール製のトレイを覗くと、拳大の岩石がいくつも並んでいた。

「研究のために薄くするんですよね」

「はい、30マイクロメートル、つまり0.03ミリメートルまで薄くすると、岩石も光を通して透けます。そうして顕微鏡で観察できるようにしたものを薄片(はくへん)と言います。研究者が安心して研究できる薄片を作るのが、私たちの仕事です」

 とはいえ岩をいきなり磨くわけではない。

「まずは切断機で小さな切れ端、チップにします。ここは怪我すると危ないので私たちがやりますね。佐藤さん、お願いします」

 はい、とちょっとお茶でも淹れるくらいの雰囲気で一人の男性が歩み出る。岩石切断機は、いわば回転のこぎりだ。刃は鋭くはないが厚くて固く、触れてみるとザラリとしている。

「ダイヤモンドブレードです。リムロック式という種類なのですが、最近は数が減って手に入りにくくなってきました。音が平気でしたら、どうぞ近くでご覧ください」

 スイッチが入ると猛烈な勢いでのこぎりが回転し始めた。佐藤さんは岩を両手の指でしっかりと押さえ、刃に押し当てていく。冷却用の水がシャワーのように噴き出し、刃と岩とを濡らしている。工事現場のごとく甲高い音が鳴り響く。無駄のない手さばきで、あっという間に四角い欠片(かけら)が切り出された。平たい消しゴム、といったサイズ感だ。

「次に『面出し』と言って、機械で片面を磨きます」

「さっそく薄くしていくんですか?」

「いえ、先にスライドガラスに貼りつけます。精度を高めるために、貼る側の面を磨いてツルツルにしてから貼るんです。薄くするのはそれからですね」

「なるほど‥‥‥でも、どうしてスライドガラスに貼るんでしょうか」

「ガラスで支えないとバラバラになってしまうんですよ。30マイクロメートルの薄さの岩石って、そっと触れただけでもパリパリって割れるので」

 改めて想像を絶する薄さである。

 平林さんがろくろのような機械の前に立った。スイッチを入れると、鉄の円板が回転し始める。そこに、ボウルから粉をひとつかみ取って振りかけた。

「研磨材です」

 手で掬った水をくわえて粉を円板の上に満遍なく広げると、チップを載せ、星を描くように円板の上を滑らせていく。

「一部だけ使っていると円板が歪んじゃうんで、こうして全体を使うようにします」

 機械の力を借りているとはいえ、体全体を使っての作業だ。エプロンのせいかもしれないが、キッチンで料理しているようにも見える。

「最初はしっかり強く、徐々に力を抜きつつ、ちゃんと端までチップと円板とが当たっているかを確かめながら。研磨材の粗さを3段階くらい、変えながら磨いていきます」

 20秒ほど削ったら一度水で洗い、エアーノズルから圧縮空気を吹き付けて水滴を飛ばしてから、次の円板へ。また別のボウルから粉を取り、作業を繰り返す。

「ここは割と単純作業ですね。研磨材の180番くらいでは、歌とか歌いながらやってるかな。2500番くらいを使って仕上げをするときは、もう少し石の表面を感じていますが。全工程で集中しているとどっかで躓(つまず)くんで、抜くとこは抜いて。集中するとこはして‥‥‥」

 チップの表面はザラザラからサラサラに代わり、やがて触っていて気持ちがいいくらいツルツルになった。

「ここまで来ると、ほら。光を反射するんですよ」

「本当だ!」

 チップを部屋の明かりにかざすと、きらりと輝く。御影石のタイルのようだ。目を細め、角度を変えながら見つめる平林さん。

「蛍光灯の光が映っていますよね。その具合で、歪みがないか、きちんと平らになっているかを見ているんです。光の形が真っ直ぐなら、大丈夫。いい感じになったら、スライドガラスに貼り付けます」

 なるほど、と感心していると目の前にエプロンを差し出された。

「では、ここからやってみましょう。こちらの作業机へどうぞ」

 おそるおそるエプロンをつけ、席に座る。まずは小さめのホットプレートのような器具にチップを載せ、温めて脱水する。次に攪拌用ニードルという、畳針のようなもので接着剤をすくってスライドガラスに塗り、チップに貼り付けるのだ。

「一見簡単に思えますが」

「そうでしょう。でもこのとき、細かい気泡がどうしても入るんです。それを抜かなきゃならない。観察の邪魔になるので」

「抜くって、どうやって‥‥‥」

「気合いで抜きます」

 てい、とチップにスライドガラスを載せ、上からピンセットでぐっと押し込む。スライドガラスをぐりぐり押し当てて動かす。確かに、点のように小さな気泡がいくつか見える。押しつけるとほんの少しずつ端に寄っていく。スマートフォンの画面に保護フィルムを貼るのに少し似ている。

「そうそうそうそうそう! チップが熱いうちに。スピード大事です。上、下、上、下! そうそう! いいですよーっ」

 平林さんの声援を受けながら、必死にチップと格闘する。泡は端から一つ抜けても、今度は別のが現れたりして、なかなか思うようにいかない。チップが冷めたら、温め直すところからやり直しだ。最後に平林さんに仕上げをしてもらって、やっと次の工程に移れた。

「無事にスライドガラスに貼れましたね。そうしたらもう一度岩石を機械で切断して、厚さを0.15ミリくらいまで減らします。千円札を二枚重ねたよりも少し薄いくらいですね」

 さっきとはまた別の回転のこぎりを使う。今度は指で押さえる必要はなく、セットしたら自動で切ってくれる仕組みだった。しばし待ってから取り出すと、岩石はかなり薄くなっていた。スライドガラスにくっついている姿は、板から剥がしきれなかったかまぼこ、という感じである。

「さあ、ここから0.03ミリまで先ほどの円板で磨いていきますよ」

 平林さんは簡単そうに言うが、岩石はあと0.15ミリしかないのだ。うっかり削ると、なくなってしまいそうに頼りない。

 再び研磨材を振りかけ、円板を回し始める。先ほどの面出しと似た作業だが、平林さんの顔つきが引き締まった。ここが集中のしどころのようだ。

「こうやって置いて」

 パシッ、と棋士が碁石を打つように、岩石の側を下にしてスライドガラスを円板に載せる。

「磨いていきます」

 そのまま円板の内側から外側へと、スライドガラスを滑らせていく。端っこまで行ったら取り上げて、また円板に載せては内側から外側へと滑らせる。アナログプレーヤーとは方向が逆になるが、レコードの上を針が走るようにも見える。そして実際、平林さんは表面の溝を読んでいるそうだ。

「研磨材が走って、同心円のような形を描いていますよね。この流れを見るんです。たとえばどこか一箇所だけ岩石が薄いところがあると、そこから研磨材の線が太く走ります。線が均一になるように回し方、力加減を変えるんです。すると全体が同じ厚さになります」

「指先の感覚だけではないんですね」

 磨いている間はしゅーっと微かな音がする。

「この音も聞いています。匂いも嗅いでますね。何か変化があれば、その都度微調整しています」

 奥が深そうだ。と思った直後、笑顔でパスが飛んでくる。

「ではどうぞ、やってみましょうか」

 パシッ、しゅーっ。見よう見まねで磨いてみる。何とかなりそうだ、と思っていると、指先でスライドガラスが震え始める。しっかり押さえなくては。しかし、あまり力を込めると今度は削りすぎてしまうぞ。そうだ、研磨材の流れも見なくては。それから音に、匂いに‥‥‥あっ。

 スライドガラスが吹っ飛び、視界から消えていた。

 難しい。愕然としていると、平林さんがスライドガラスを拾い上げ、岩石の表面を軽く撫でた。

「うん。だいぶいい感じですね」

「そうなんでしょうか」

「触ってみてください。どこが出っ張っているかわかりますね」

 言われるままに表面を撫でてみる。全然わからない。全部漠然と薄い。

「わかるでしょう、ね?」

 平林さんと一緒にされても困る、と思いつつ、目を閉じて何度かゆっくり触ってみた。すると。

「あ、こっちの方が少し厚い!」

「そうです、そうです。そこをもう少し削っていきましょう」

 厚いところと薄いところの差は、ほんのわずかである。おそらく0.01ミリくらいではなかろうか。だとすると赤血球を四つか五つ重ねた程度に過ぎない。でも、わかる。一度わかってしまうと明らかだった。さらに岩石の表面にある傾斜やでこぼこがイメージできるような気さえしてきた。不思議な感動があった。

 円板に載せて、スライドガラス越しに触っていてもわかる。微かだが分厚いところを感じるのだ。よーし削るところはわかった、しっかり押さえつつも研磨材の流れを見て、できれば音を聞いて匂いも嗅いで‥‥‥。スパン!

 音を立てて、スライドガラスはまたも吹っ飛んでいった。

二宮敦人(にのみや あつと)

1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。

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