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美しい本のはなし 「白い」本

高山羽根子

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Illustration 塩川 いづみ

 この10、20年くらいで、グラフィック、特に書籍関係の装丁デザインの分野において、「余白」というものの意味がとても大きく変わったと感じている。それは自分が本を出すようになって、そういった分野にも今まで以上に目を向けるようになったからなのかもしれないけれど、スマートフォンや電子書籍端末の普及など、人が文字を読むメディアが大きく変わったことも影響しているんじゃないだろうか。

 余白もそうだけれど、そもそも「白い」ということ自体にも変容を感じている。紙の白は、何も刷られていないという意味の白であるいっぽう、モニターやスマートフォンの液晶ディスプレイの白はすべての色の光が灯っているという事をあらわす。この場合、電源が入っていない、あるいはスリープというふうに呼ばれるような何も灯らない状態は「ブラックアウト」つまり「黒い」という「何もなさ」であって、そこに光が灯って初めてなんらかのものが現れる。はじめに光あれ、というふうに。

 白をあらわすフランス語のblanc(ブラン)やスペイン語のblanco(ブランコ)は、もともと「稲妻の光」をあらわす言葉だったらしい。同じ語源を持つ英語のblank(ブランク)では転じて、一般的に空虚、移ろ、空白をあらわす言葉になり、日本語の中でも「3年のブランクがあり‥‥‥」、などと使われ定着している。

 電子書籍というシステムの発展は「余白」の意味を変えたのだろう。代表的な電子書籍専用端末のキンドル・ペーパーホワイトは、その名前に反して、特に初期バージョンの画面の余白部分はグレーっぽくくすんでいる。これはスマートフォンのディスプレイのような光に基づいた白とちがって、電子ペーパーにEinkといったものは、紙の白さとインクの黒に基づいてプロダクトされているためだ。初めて見たときはそのくすんだ色に驚いたけれど、外の太陽光で見ない限り、紙の白というのは自ら発光するような白さを見せることはない。

 電子書籍という変化の前に、紙の本は以前、活版印刷という仕組みで作られていたという変化も存在した。活版印刷というのはつまり凸版といういわゆる版画の一種なので、インクが無くてもその押しつけによって紙にエンボス状の加工がなされる。白い紙に凹部があると、光と影によって凹部の文字がグレーになって読めるようになり、手触りによってもその違いがわかる。活版印刷の「白」という「何もなさ」というものは、コピー機的な平面の印刷ともまた違っているのだろうとも思う。

 今、手元に三冊の「白い」本がある。

 一冊は韓国の詩人、小説家のハン・ガンによる『すべての、白いものたちの』。表紙は白を基調に、墨のようなモノクロームでデザインされている。ゆき、こめ、はくさい、乳、ほねといった白いものにまつわる掌編が書かれた一冊の小口部分を見ると、様々な紙が使われているのがわかる。光るような白、乳白、生成り、このさまざまな白を、電子書籍は、それにより読書をする人たちは、どう受け止めるのだろうかとも思う。

 もう一冊は、内藤礼による『空を見てよかった』。短編集とも、詩集とも言えるだろうこの本は、白い表紙カバーに、銀色の箔押しでタイトルと作家名が小さく書かれている。後ろに返すと、ISBNのシールが「剥がせます」という注意書きつきで貼られていることからも、このプロダクトへの並々ならぬこだわりの強さが表れている。中を開いてみても、余白をたっぷりとった本文のその白さはまさに「空白」であり、あるいは「空間」、つまり「スペース(宇宙)」でもある。そうしてその余白はまるで謎解きのように、注意深くこの物語の中に組み込まれている。

 最後の一冊は、国書刊行会の未来の文学シリーズのうちの一冊、サミュエル・R・ディレイニーの中短編集『ドリフトグラス』。この作品のカバーは、パールホワイトの紙にタイトルや作家名が無色のクリアコートで刷られている。この文字を読むには、本をかたむけ、光を当てる角度を変えてみる必要がある。そのため、これらの書影をオンラインで、あるいは別の雑誌などで見る場合、どうしても実物と違って見えてしまう。この本は、同シリーズにおける同著者の『ダールグレン』が黒一色のデザインであるのと対になっている。小説によるアフロ・フューチャリズムのさきがけとも言われるディレイニーという「黒人」作家にとって、「黒い」「白い」ということは、私たちの抱く印象とはまた全くちがった、重要なものなのかもしれない、とも感じた。

  これら「白い」本たちは、電子書籍だけでなく、物理的な本として持っていてさえ、簡単に損なわれうる危うさを持っている。紙は酸化すれば変色するし、その色の変化は紙の性質だけでなく持ち主の保存環境にも左右されるだろう。私の家にあるものはもちろんのこと、古本という形で流通していなくても、書店で棚に、あるいは版元や取次の倉庫に置かれているかぎり、それは進行していく。たったひとつ、自分だけの、と言えば聞こえがいいかもしれないけれど、表現の一要素としてその「白さ」を用いているかぎり、その変容を無邪気に受け入れることにはためらいがある。

 白にさまざまな階調があることを『すべての、白いものたちの』は示し、『空を見てよかった』は空白としての白さを見せてくれる。『ダールグレン』の作品群は漆黒の宇宙(スペース≒空白)に希望や絶望や世界のさまざまなものを託してみせた。私たちは、彼らが埋めなかった「白い」「スペース」、たとえばデジタルデータにしたときに取りこぼされる艶や手ざわり、かすかな凹凸をさえも、物語の一部として読んでいるのだと思う。

取り上げられた書籍

  • 『すべての、白いものたちの』ハン・ガン(河出書房新社 2018年)
  • 『空を見てよかった』内藤礼(新潮社 2020年)
  • 『ドリフトグラス』サミュエル・R・ディレイニー(‎ 国書刊行会 2014年)

高山羽根子(たかやま はねこ)

1975年富山県生まれ。小説家。 2009年「うどん キツネつきの」で第1回創元SF短編賞佳作、2016年「太陽の側の島」で第2回林芙美子文学賞を受賞。2020年「首里の馬」で第163回芥川龍之介賞を受賞。著書に『オブジェクタム』『居た場所』『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』『如何様』『暗闇にレンズ』『パレードのシステム』、3人の作家のリレー書簡『旅書簡集 ゆきあってしあさって』、などがある。

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