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美しい本のはなし 刺繍、目の喜び

堀川理万子

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Illustration 塩川 いづみ

 フランス北西部にバイユーという町がある。「マチルダ王妃のタピスリ」があることで有名な町だ。それは11世紀に作られた、全長63メートル以上に及ぶ刺繍絵巻で、イングランド王ハロルドとノルマンディー公ギヨーム2世(のちのウィリアム征服王)による「ヘイスティングスの戦い」に至るまでの歴史がえがかれている軍記絵巻。ハレー彗星出現の場面があり、その記録ともなっている。「タピスリ」とタイトルがついているが、実際は刺繍作品だ。

 この『THE BAYEUX TAPESTRY』はその刺繍のすべてをおさめた大判の本で、丁寧なライティングで撮られた写真によりステッチの一つ一つの交差するさままで見ることができる。兵士のかたびらのための複雑なステッチ、馬の色を青色、黄土色、弁柄色の糸で刺しこめたステッチ、ラテン語のアルファベットのフォントのためのステッチ。

 いくら見ても見飽きない。内容は戦争だから、肢体がバラバラになった様子なども表現されているが、全体のフォルムや色彩は躍動的で楽しげで軽快なものだ。

 

 人には、好きな材質、質感、というものがそれぞれあると思う。材質って何が好き? という質問をアーティストの友人たちにしてみる。すると、みんな、楽しみながら答えてくれる。

「木」が好き

「紙」が好き

「金属」が好き

「漆」が好き

「陶」が好き

 ‥‥‥などなど、答えはいろいろ。そして私に関して言えば、「布」が、それも、「刺繍された布」が好き。

 思えば、他界した母は、刺繍が好きな人だった。子どもの頃は、母が刺繍した座布団に座り、母が刺繍したかばんに教科書を入れて登校していた(私が通っていた小学校は児童にランドセルを使わせていなかったので)。理科の授業のために持っていた虫眼鏡で母の刺繍を拡大して見るのが好きだった。また、太平洋戦争が時代背景のテレビドラマで「千人針」(出征する兵士のため、その係累の女性が、道ゆく女性たちに呼びかけて、さらしの腹帯に赤い糸で玉止めをしてもらうのだ。それが戦場での弾よけになると信じられていた)のシーンでは、白地にたくさんの赤い糸のつぶつぶが整然と並んだ様子が可愛らしくて、好ましいものに見えた(あくまでも、オブジェクトとして)。

 刺繍は元来、布を補強する役割のほかに、魔除けの意味があるらしい。世界各地で女たちが、山仕事など危険なところに出かける男たちを厄災や事故から守るために、服や、はちまき(ヘアバンド?)などに刺繍を施した例もある。

 いつのまにか私の手元には世界各地の刺繍の施された小物や、刺繍の本がたくさん集まっていた。このバイユーの本もその中の一つなのだ。

 2021年の初夏、横須賀美術館で世界の刺繍作品の展覧会があった。「糸で描く物語」展。刺繍好きとしては、どうしても見たくて、コロナ禍の不穏な時期ではあったが、おして出かけた。

 そこで出会った刺繍(絵本の原画)に激しく心を揺すぶられた。チェコの作家エヴァ・ヴォルフォヴァーの作品『Kočička z kávové pěny(コーヒーの泡から生まれたこねこ)』だ。アップリケを含む刺繍の技法で全ページが作られている。

 そして、ミュージアムショップでその絵本を手に入れることができた。

 チェコ語だが、幸いなことに、Google翻訳で読むことができる(多少、意味不明な箇所もあるが、そこは想像力で補完)。下の画像はコーヒーマシンで作るコーヒーの泡から生まれた子猫(主人公)が洗濯かごの中でくつろぐシーン。

 ギンガムチェックの布地にこんなざっくりと自由な線の刺繍が施されている。子猫はこの洗濯かごの持ち主のファミリーと暮らすことになるのだが、ファンタジーのまざるこのシンプルな物語を刺繍が訥々(とつとつ)と、しかし、饒舌(じょうぜつ)に物語る。一つ一つの見開きをじっくり眺め、そして、楽しむ。目の喜びとしか言いようがない幸せな時間。

 最後に紹介するのは、『時をこえて ひと針のゆくえ』だ。小ロットで手作り感のある本を発信することで、今どきの大量流通、大量断裁(悲!)の本のシーンに、温かい一石を投じ続けるインドの出版社タラブックス(日本語版はタムラ堂)から出ている本なのだが、なんと驚くことに、黒いビニール袋に植物の手刺繍がしてある作品15葉からなる(表紙には、ミシン刺繍してある本物の黒いビニールが使われている!)。

 作者のアナイス・ボーリューは子どもの頃から母、祖母の影響で刺繍に親しんできた。そしてある時、西アフリカのブルキナファソで、木に大量の黒いゴミ袋が引っかかっているのを見て、そこから、ビニール袋に刺繍をする着想を得たのだという。テキストは、その植物についての詩で、読者の意識に静かに訴えかけてくる。しかしとにかく、このビニールという破れやすい支持体と刺繍の組み合わせに激しい違和感を覚え、目が釘付けになる。そうだ、表現に必要なのはまさにこの「違和感」を味わわせることでもあるのだ。人工物と自然の対比、環境問題へのテーゼ、そんなふうに書いてしまうと、安易に聞こえてしまうかもしれないが、ボーリューは後書きで彼女の創作の大切な要素として「素材のせめぎあい」と書いていて、まさにそのせめぎ合う素材の拮抗こそがこの刺繍の魅力なのだろう。

 私たちがやすやすと消費して、いったん穴でもあけば、あとは見向きもしない破れやすいビニール袋に丹念な刺繍がされた作品を見ることで、ニンゲンが環境に対してしてしまったことへの贖罪(しょくざい)のような気持ちにもなる。

 刺繍の魅力とはなんだろう、と改めて考える。織り物とも編み物とも違うその特徴とは。糸はときに人生や、人との縁の比喩にも使われるが、刺繍の針を「刺す」という行為によって、刺し手の思念や、刺繍にかかった時間もいっしょに布に縫いこまれているように感じさせるのかもしれない。刺繍は絵の具で描く絵とちがって、小さな面積を色で埋めるためにも膨大な手間と時間を要する。その存在感はそこに「刺し」こめられた思いや、要した時間の長さに比例するように思えるのだ。

 母の刺した刺繍をいまでも時々眺める。そして指でなぞる。彼女がとても懐かしくなる。

 3回にわたり、手持ちの中から特に気に入っている本について、私自身楽しみながら書かせていただいた。世界にはまだまだ「え!」と驚かせてくれる本がたくさんあるのだろうし、そしてこれからもたくさん出るのだろう。触手を精一杯伸ばしておこう、そういう本に出会える私でいるために。

取り上げられた書籍

  • 『THE BAYEUX TAPESTRY』David M. Wilson(Thames & Hudson  2004年)
  • 『Kočička z kávové pěny』Eva Volfová (Baobab 2011年)
  • 『時をこえて ひと針のゆくえ』アナイス・ボーリュー(タムラ堂 2022年)

堀川理万子(ほりかわ りまこ)

1965年、東京都生まれ。画家、絵本作家。 2021年、絵本『海のアトリエ』で第31回Bunkamuraドゥマゴ文学賞、第53回講談社絵本賞、第71回小学館児童出版文化賞受賞。絵画作品による個展を毎年開催しながら、絵本作家としても活躍。絵本に『ぼくのシチュー、ままのシチュー』、『おへやだいぼうけん』、『おひなさまの平安生活えほん』、『権大納言とおどるきのこ』など多数。

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