西崎憲
1955年青森県生まれ。作家、翻訳家、音楽レーベル主宰。 日本翻訳大賞の創設、文学ムック「たべるのがおそい」の編集長を務めるなど、幅広い分野で活躍。2002年、『世界の果ての庭』で第14回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。著書に『ヘディングはおもに頭で』『未知の鳥類がやってくるまで』『全ロック史』、訳書に『郵便局と蛇』コッパード、『ヘミングウェイ短篇集』、『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』、『あの人たちが本を焼いた日 ジーン・リース短篇集』などがある。
先天的なものなのか、それとも後天的な理由がなにかあるのか、自分はどうも厭世的な傾向が強いようだ。そして同時に穏健な快楽主義者でもある。
矛盾に聞こえるかもしれない。
厭世的な快楽主義者という語列は撞着に聞こえる。はたしてそのようなものが存在しうるだろうか。けれど理屈の上ではこのふたつの結びつきはなかば必然のようにも見える。
厭世感が強すぎるともちろん人生は苦しいものになる。そしてその難しさを直視しつづけるのはつらいことであり、気晴らしを求めるのは人情である。厭世家にこそ歓びを与えてくれること、ものが必要なのだ。自らを現世に繫ぎとめるよすがが。
ではわたしはなにに関する快楽主義者であるか。
本と音楽である。そのふたつこそが自分にとって世界を意味のあるものにさせている因子である。
自分は社会やそのなかで生活することにどこか馴染めないで過ごしてきた。その感覚がまったくないと感じた瞬間は物心ついてからほぼない。
けれど、そうした自覚を公言して生きることに、利点を見出せなかったので、違和感を口にするのは稀で、いわば擬態するように生きてきた。
思うに、そうやって生きてきた方は少なくないのではないだろうか。
わたしの場合は自己の本体として守って、そして守られてきたものは本と音楽であるが、ほかの方にとっては、それは美術やスポーツ、あるいはなんらかの主義や趣味かもしれない。
そしてSNSを見るとむしろ人間にとってそれが常態なのかもしれないとも思う。人は孤独であるし、その点では誰も独創的になることはできない。孤独は人間の影だ。
前置きが長くなってしまった。生活における美しく小さな窓としての本について語ろうと思う。
住居には窓が必要である。窓のない家や部屋に好んで住みたがる者は少数だろう。人間の生活を考えると、物理的に窓が必要であるし、精神的にも人間には「窓」が必要であると筆者は考えている。
そして本こそがその精神の窓ではないかと思う。ここよりどこかに向かって開かれた窓。
そんなふうに考えているので、自分は空想的な要素を盛りこんだ文学が特に好きなのかもしれない。窓から見える風景の異質さを畏れたり楽しんだりするのは子供のころから親しんできたことだった。
そしてあらためて「窓」というものについて考える。
はじめて電車や車に乗ったとき、車窓から見える風景は誰にとっても魅力的だったはずだ。しかし大人になったら事情はちがう。観光旅行などに行ったとき以外に窓外の風景に目を向ける者は少ない。子供のような気持ちで風景に目を向ける者は通勤電車のなかにはほぼいないだろう。
いったいどの段階で人は車窓の風景に興味を失うのだろう。どの時点で単調であると判断して眺めることを止めるのか。そして窓の外に目をやるのを止めた者はつぎに何に目を向けるのだろう。
言うまでもなくそれは「窓外」ではなく内側である。スマートフォンであり、自身の内側である。ドメスティックな何か、そういうものにわれわれは目を向ける。
もちろんそれを難じることはできない。窓の外などを眺めていると重要な物事を見逃すかもしれないし、そのせいで何かのタイミングを逸するかもしれない。予想外に損をするかもしれない。それにそもそも窓のない部屋でも人は生きられる。
けれど考えてほしい。スマートフォンで見るのはたいてい自分で選んだものだ。あるいは最近では誰かがあなたに見せようとしているものだ。多少独断的な言い方になるが、それらはあなたに新鮮な何かをもたらしはしない。
けれども本は違う。本はたいていあなたを裏切る。われわれは本を制御することができない。本からはときに風が吹いてくるし、本からあふれた水はこちら側のわれわれも濡らすかもしれない。本は静的な何かではない。本はつねにあなたに語りかけようとしている。
あいだに挟んだ本について説明しておこう。
アンナ・カヴァン『ジュリアとバズーカ』千葉薫訳、サンリオ文庫、1981年
サンリオ文庫は伝説的な文庫であるが、わたしにとっての同文庫のコアは小泉孝司の表紙かもしれない。アンナ・カヴァンはきわめて独創的な作家である。
我妻俊樹他『移動図書館の子供たち』柏書房、2020年
書き下ろしアンソロジーシリーズ〈kaze no tanbun〉の2冊目である。
柳田國男『海南小記』角川文庫、1956年
日本語で書かれたなかでは最高クラスの旅行記。さすがに文章には時代が感じられる。現代語訳があってもいいように思う。
稲垣足穂『ヰタ マキニカリスⅠ』河出文庫、1986年
稲垣足穂『ヰタ マキニカリスⅡ』河出文庫、1986年
稲垣足穂『ヒコーキ野郎たち』河出文庫、1986年
稲垣足穂自身にとって文章を書くというのは趣味だったのだろうか仕事だったのだろうか。ダンセイニに触発された幻想作家の側面と同性愛文学的要素がまず目につくが、宇宙論を書いたりもしていて、ポーやイェイツや露伴などに通じる大きさを感じさせる。足穂の「少年愛」は現在はどのように受け止められるのだろうか。
長澤均『パスト・フューチュラマ――20世紀モダーン・エイジの欲望とかたち』フィルムアート社、2000年
文化史の名著。擦り切れるほど読んだ。
金子光晴『マレー蘭印紀行』中公文庫、1978年
柳田國男の『海南小記』と同様、最高レベルの旅行記である。ひれふしたいほどの出来である。
1955年青森県生まれ。作家、翻訳家、音楽レーベル主宰。 日本翻訳大賞の創設、文学ムック「たべるのがおそい」の編集長を務めるなど、幅広い分野で活躍。2002年、『世界の果ての庭』で第14回日本ファンタジーノベル大賞を受賞。著書に『ヘディングはおもに頭で』『未知の鳥類がやってくるまで』『全ロック史』、訳書に『郵便局と蛇』コッパード、『ヘミングウェイ短篇集』、『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』、『あの人たちが本を焼いた日 ジーン・リース短篇集』などがある。