二宮敦人
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。
舞台音響表現家
百合山真人(ゆりやま まさと)
「音響卓のボタンをポンとただ押せば、音は出るわけです」
テレビのリモコンなんかを思い浮かべながら、僕は頷(うなず)く。
「だから極端なことを言えば、機械さえ買えば音響って誰にでもできちゃう、音を出すだけなら。でも、この台詞の後にこの曲を流すと言われて、ただポンと押す。それでいいのかと思うんです」
「え? それでいいんじゃないでしょうか。何か違いが出るんですか?」
「たとえば、少し前にやった演劇なんですけども。戦争中の北朝鮮を題材にした話でした。母親について主人公が話すシーンで曲が流れるんです。さて、どう流したらいいか。音量はどれくらいから入るか、タイミングはどこで入るか。そこで考えます」
百合山さんは両手を広げ、しばし目を閉じた。
「主人公は35年くらい前の出来事を思い出すんですね。すぐには浮かんで来ないはず。まずは心の奥底に仕舞い込んだままの玉手箱をそっと探って、おずおずと出してくる。ゆっくり開くと、そこから少しずつ断片が溢(あふ)れ出してきます。徐々に記憶は鮮明になっていって‥‥‥これまで誰にも言わずにきた話なんです、言えなかった。自分のせいで母親が粛清されてしまって、ずっと負い目に感じていて‥‥‥それを日本からやってきた新聞記者に、ぽつりぽつりと語り出す。最後にはまた大切にしまって、元に戻す‥‥‥」
まるで本当に箱に戻すような真似をして、目を開く。
「そういう音楽の流し方をしたんです」
機械のダイヤルをひねり、ボタンを押しているだけである。しかし耳を澄ませてヴァイオリンの弓を引くような生々しさを感じる。血の通った演技という表現があるが、この場合は血の通った音響、だろうか。
「もちろん機械の操作は大事ですよ。正確に動かせなければなりません。知識や練習が必要ですし、本番もミスがないよう、確認作業をしながらです。でも、その先が必要なんです。僕に音響を教えてくれた方の一人が、演劇作りはものづくりに似ていると言っていました。ものづくりは完成形をイメージして、具現化するために図面設計をして、機械を組み立てる。演劇作りもそうで、お客さんにどう感じてもらうかをイメージして、音響プランを組み立て、音を作り、音量やタイミングを調整し、現場のスピーカーの配置などを決め、実際に操作する」
「お客さんに伝わって初めて、仕事をしたといえるわけですね」
「その方は音響機器の開発もしていました。昔はスライドボリュームといって、ツマミを前後に動かして調整する装置しかなかったそうです。それを回転式のダイヤルに変えた」
「何のためにですか」
「仕事上必要だと気づいたそうです。ダイヤルなら手の角度で、今どのくらいの音量かがわかる。つまり手元を見なくてもいい。芝居の中で、ここは目を離さず集中して操作しなくてはならない、という場所が必ずあるんです。そこで機械や台本を見ていたら、客席の空気を動かせない。伝わらないんです」
「ただ機械を操作すると言っても、奥が深いんですね‥‥‥」
「はい。伝えたい想いとか、気持ちが大切になってきます」
百合山さんは振り返り、背後の窓の向こうを指さした。
「たとえばそこで車が通ってますね、その音を聞いて自分が何を思うか。今こうして二宮さんと会って、話していて、高揚感があって凄く良くって、これも僕は一つの音楽じゃないかと思ってるんですけれど、この状況で自分の中に溢れているものが何かあるわけです。そういったものをいかに作品の中から抜き取れるか。お客さんに伝えていけるか。そう、僕は今、三味線を習ってるんですが」
バチを振るうような動作をして、続ける。
「『さくらさくら』を弾くとしますね。三味線の楽譜には、〇、〇、二、〇、〇、二とか書いてあります。でも、ただそれをなぞって音が出したいわけじゃない。僕は『さくらさくら』を弾きたいんです。色んな桜がありますね、満開の桜、散り際の桜、濃い桜に淡い桜‥‥‥イメージによって音量やリズム、タッチが変わってくるはずなんです。三味線って2分の曲を、1分で弾こうが、3分で弾こうが、そこはどちらでもいいんですよ」
「あ、そうなんですか?」
「はい。踊り手との息が合ってさえいればいいんです。だから2分という枠に合わせるのではなく、自分が何分で弾きたいと思っているのか、踊り手とどう合わせるのか、そういうイメージをすくい上げることが大事になる。そして口三味線と言って、まずは口で歌うところから練習を始めます。ドン、チン、シャンとかね、口で演奏してみてから、そのイメージに近づくように演奏していく。これは演劇の音響と似ていると思います」
僕は何とか話についていこうと必死だ。
「自分の中から音を出す、という意識を持って三味線を弾き、機械のボタンを押すということでしょうか」
「音って今この瞬間もそこら中で鳴っているわけですが、そういう音と演劇の音との違いは、主体性なんです。自分が鳴らそうと思って鳴らしている。2時間の演劇があったとして、曲を流しているのは1時間しかないとしても、残りの1時間も意図があって『鳴らしていない』。2時間の演劇全体を、いわば一曲の音楽と見なして作り上げたいんですよ」
「むむむ‥‥‥」
だいぶ抽象的な話になってきた。
「演劇が一曲の音楽だとして、ずっと均等なリズムではないですよね。ぐわっと勢いがつくところもあれば、ゆっくり進むところもある。基本となる単位は呼吸だと思ってるんです。吸って、吐く。役者もお客さんも、みんな息をしている。自分も。呼吸はそもそも心臓と繋がっているので、生命のリズムとも言えます。普段はみんなバラバラに呼吸をしていますが、演劇のうねりの中で、だんだん揃ってくるはずなんですよ。たとえば『愛してる』と告白するシーンの前は、息が浅くなったり。衝撃の真実を告げられた瞬間は、呼吸が止まったり。それに合わせてボタンを押すんです」
良かった。やっと、ボタンを押す話に戻ってきた。
「ええと、呼吸が止まる瞬間に音楽を流すということですか?」
「どう言ったらいいかな。韓国の伝統舞踊では、チャングという太鼓を叩くんです。叩き方は、大きな円を描きながら息を吸って振り上げて、息を吐いて叩く。この繰り返し。周期的な動きで、二十四節気、つまり一年の流れ、ひいては永遠への願いを表しているそうですが。三味線も同じですね。バチを上げる時に吸って、叩く時に吐く。すると、音が気持ちよく飛んでいくそうです」
「舞台の音響に当てはめると、どうなるんでしょう」
「音を全体にしっかり飛ばしたい時は、吐く瞬間にボタンを押すといいと思うんです。そうすると客席の空気が動きます。ぐわっと舞台に引き込まれたり、押されるような圧を受ける感覚がありますが、あれは実際、タイミング良く鳴った音が空気と一緒にお客さんを動かしてるんだと思います。音って空気の振動、波ですから。逆にちょっとリズムを乱したり、拍子抜けさせたりしたかったら、息を吸っている間にボタンを押してみる、なんてのも考えられますね」
「なるほど‥‥‥」
息を吐いてボタンを押すと音が良く飛ぶ。それだけ聞けばオカルトである。しかしボタンを押すタイミングを、舞台全体の呼吸を感じながら計る、と言えば繊細な技術とも言える。
「舞台音響家はみんな、こんなことをしているんですか」
「いえ。あくまで僕の考え、それもここ最近の考えです」
百合山さんは頭を掻いた。
「また少ししたら、考えが変わっているかもしれません。でも今は、そう思ってます」
まずは、自分はこう鳴らしたい、という意思を持つことがとても大切らしい。
「それがないと、ただボタンを押すだけの人になってしまいます。でも、『俺はこういう音を出したい』と単なるエゴでやってもだめなんですよね。昔の自分がそうでしたが。それはオリジナルのスパイスをやたらと入れたカレーを、誰にでも押し付けているようなもので。作品から汲み取ったり、稽古ですくい上げたりしないとならない」
「稽古ですくい上げる、というのはどういうことですか?」
「稽古って何のためにやるかと言いますとね、脚本の中にはいろんな可能性があるんです。僕がこう音を鳴らそう、と考えるように、いろんな人がいろんなことを考えてきます。で、その可能性がたとえば千個あったら、一つ一つ減らしていって、最後に一つにしなきゃならない。『お客さんに判断を委ねる』なんて言葉がありますが、お客さんに委ねるためには、その前に僕たちの中で一つになっている必要があるんですよ」
「正解を一つ見つけるという感覚なんでしょうか」
「いろいろ試す、という感じですね。僕は考えてきた音を出す。役者さんは役者さんで、自分の考える演技をする。そうやって持ち寄ると、発見があるんですよ。ああ、そういう感情の捉え方もあったのかとか。確かにこのシーンでは、悲しみよりも怒りが登場人物の中に渦巻いていそうだとか。じゃあそれをふまえて、こっちも音の出し方を変えてみるか、と。きっと僕の音を聞いた役者さんも、そういうことをしていると思います。そうして登場人物の情感をすくい上げて、演劇を深めていく。一定の水準になったところで、演出家が最終的な判断を下します」
「そのすりあわせは大変そうですね」
「どうしても時間はかかります。稽古はだいたい13時から始まって、夜の22時くらいまで。最初はある程度区切りながら、本番が近くなったら通し稽古、とやっていくわけですが。同じシーンを一日中やってることもありますよ。台本でいうと10ページくらいのワンセンテンス、数分くらいかな、それをひたすら」
「一日、ずっとですか?」
「休憩は取りますけどね。いや‥‥‥自由にトイレに行けない時も多いかな‥‥‥」
仮に一回に5分かかるとして、13時から22時までひたすら続けると、単純計算では108回ほどになってしまう。
「疲れますし、卓の前で座りっぱなしですから、腰が痛くなりますね。稽古が終わっても、残りの時間で音作りなんかをするので、徹夜続きになることも。でも、全員で一つのものを表現するには、やるしかない。それくらいやらないと、初日にいいものができない」
改めて、演劇のセクション分けを思い起こした。音響、照明、美術、舞台装置、衣装、ヘアメイク、役者、舞台監督、脚本、制作、演出‥‥‥みんなの気持ちを揃えて一つの舞台を作るとは、なんと壮大なことだろう。
「このお芝居、どうも入れないとか。音を出したい気持ちが湧いてこないとか、そういうことはないんですか」
「それは、正直ありますね」
百合山さんは眼鏡の位置を直して微笑んだ。
「そういうときは何か一つ見つけます。台詞一つでもいい、シーン一つでもいいけれど、共感できるところを意地でも探すんです。どんなにひどい脚本でも、一つくらいは接点がありますよ。何でもいいんです。この感じ、別れた彼女を思い出すとか。こんなこと、よく友達が言ってたとか。それが作品を自分のものにする、とっかかりになる。実は新人のオペレーターさんにはこちらからお願いすることもあります。『この作品の中で自分が大切だと思った台詞、一つ抜き出してきて』って。これでその人の作品の理解度もわかるし。抜き出した理由や、その台詞をどうやってお客さんに伝えるかという話を通して、共通のイメージを深めていける。音響チームの中の可能性を一つにしていけるんですね」
百合山さんはいったん言葉を止めて、自分の耳に軽く触れた。
「だから舞台音響家の耳の良さというのは、音の背景をどれだけすくい取れるか。どれだけ気づけるか。僕は、無意識に聞き流してしまっている音が多すぎて、自分が嫌になってしまうことがあります」
「聴覚が普通の人より鋭敏とか、そういうわけではないと」
ええ、と頷いて続ける。
「むしろ普通と違う状態にならないように気をつけてます。お客さんと同じ状態で聞こえないと、うまく調整できませんから。たとえば僕はイヤホンをしません。あれは鼓膜に圧がかかるせいか、外した時に聞こえ方が変わるんですよね。他にも、良く寝ないと耳の聞こえが遠かったり。長距離移動も影響があります。新幹線で現地に行って、その日のうちに音を仕込んでも、翌日聞いたら音が大きすぎるとか。だから僕、『1日目の耳』は信用していません」
同じものを聞いていても、その先の思考が違う。それが「音のプロ」なのだ。
1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。