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知られざる物語-小説の源流をたずねて ボールドウィン『猫にご用心』解説(1)

大久保ゆう

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Illustration 樋上公実子

ボールドウィン『猫にご用心』を読む

 〈小説(novel)〉というと、今では文芸でもごく一般的なものになっていて、本と言えばまずこの物語形式を思い出す人も多いかと思います。ところが、西洋文化圏では古来、アートとしては詩のほうが根強かったため、その形式が成立したのはルネサンス以降であり、その意味では比較的新しいものだと言えましょう(そもそもnovelの語源は〈新奇な〉ことを表す言葉でした)。

 文学史をある言語で振り返るにあたって、「その言語で最初に書かれた小説はどれか」という問いはたびたび立てられてきましたが、そのためには何よりも〈小説〉を定義することも必要です。問いを掘り下げると、たとえばこのような条件がよく持ち出されるでしょうか。

  • 散文で書かれた物語である(詩ではなく、対話篇や芝居の脚本ではない)
  • ある程度の長さがある(短く単体で完結する小話や民話ではない)
  • 主人公たる個人か物語の主要テーマや展開が存在する(歴史叙述ではない)
  • 虚構の物語である(実話ものではなく、評論・宗教書でもない)
  • その言語で初めて書かれた作品である(翻訳や翻案ではない)

 日本であれば、平安期以降の〈作り物語〉がこうした範疇(はんちゅう)に収まってきそうですが、英国/イギリスの場合は、少々事情が異なってきます。一大文化運動たるルネサンスの広がりとも関わってくることで、やはりその中心地で用いられていた現地語のイタリア語・スペイン語・フランス語で書かれた作品群がいち早く、英語ではその翻訳が出回ることはあれ、オリジナルの作品はなかなか出てこなかったのです。

 そして〈小説〉という文芸形式の源流をたずねる試みが続けられるなか、さまざまな候補が現れましたが、今回はその説のひとつとして、かつては稀覯書(きこうしょ)として知る人ぞ知るものであった物語をご紹介いたします(1)

 その作品こそ ― 魔女迫害が高まる前の1553年に書かれ、そのあと〈血まみれメアリ〉の治世を手稿回覧などされながら生き延びて、エリザベス朝の1570年に死後刊行された(2) ― ウィリアム・ボールドウィン『猫にご用心』です。日本だと戦国時代にあたる時期に書かれた一種の幻想怪奇小説で、出版時のタイトルは『「猫にご用心」と題する驚異の物語 ― 様々なる驚くべき信じがたい事柄をも含む ― 読んでまさに愉快痛快』というものでした。

 しかしこの『猫にご用心』、薄手のいわゆる英文学史では、まずもって触れられることのない作品です。1941年にジョージ・サンプソンが執筆した『ケンブリッジ版イギリス文学史』ではさすがに言及されているものの、まだよく知られていなかったからか、どうにもあやふやな記述でした(3)。この『猫にご用心』が再注目されるようになったのは、ウィリアム・A・リングラーJr.というルネサンス期文芸の研究者が1979年に発表した論文「『猫にご用心』と英語によるフィクションの始まり」がきっかけで(4)、ここで〈英語初の小説なのではないか〉と提唱されたあと、これを受けて大物研究者であるジョン・N・キングがその著書でボールドウィンの研究を進め(5)、最終的にリングラーが遺著として『猫にご用心』の校訂版を残すに至り(1988年刊)、今ではいろいろの文学研究書や論文で扱われるようになりました。

 一般向け人文書として浩瀚(こうかん))な、別視点からの文学史を目指したスティーヴン・ムーア『小説 ― もうひとつの歴史』でも、英語で書かれた最初の小説としての栄誉を担っている本作ですが(6)、内容面では、前書きと後書きに挟まれつつ、本篇が三部構成となっています。冒頭に掲げられるのは、この作品が長年の埋没を経てようやく出版された縁起を述べる(のちの1584年版に添えられた)詩です。そして、本作が実話であるかのように見せかける書簡とあらましが筆者本人によって示されたのち、いよいよ語り手ストリーマ氏の物語が始まります。

 第一部では、動物にも思考や会話の能力があると語るストリーマ氏が、自分の下宿先だった印刷工房で耳にした、不思議な猫の話をいくつか紹介します。その話のあと下宿では、しゃべる猫について議論が交わされるわけですが、各々の説明に当時のストリーマ氏はどうにも納得できなかった様子。そして第二部に入ると、ストリーマ氏は実際に猫の会話を理解してみんとて、中世の錬金術師の書物をひもとき、秘薬を作ろうとします。その結果、第三部でストリーマ氏はとうとう猫の集会で繰り広げられる会話を盗み聞きし出して……

 さて巻末には全体のまとめとして教訓が置かれて締めくくられるのですが、今回連載の第一回として、この『猫にご用心』の前置きと第一部の翻訳をお届けします。今作の全訳は本邦初(のはず)ながら、この第一部で登場人物たちが語る猫の挿話は、のち独立して昔話としても伝わっていて(つまり今作がその原話であり、とりわけ〈猫には九つの命がある〉〈妖猫グリマルキン〉といったファンタジー要素の出典ともされているのですが)、そのため断片的な抄訳が存在しています(7)。しかしながら、本作第一部の面白いところは、むしろその続きとして、見聞きしたまことしやかな噂話を題材に、人々が世の不思議や迷信・怪奇について議論し始めるくだりでもあるのですから、今回ようやくその部分を日本語で初めてお送りできるというわけです。

 今回の翻訳では、先に触れた校訂版のペーパーバック本を底本に用いつつ(8)、語釈については普及版アンソロジーやホールデン編の註も参考にしました(9)。本来、元の書籍には欄外に数多くの原註が施されていて(古典でいう頭註の類)、これがたびたび本篇へのツッコミにもなっていて愉快なのですが、Web連載では媒体の都合上省略しています(のちに書籍になる機会があれば、そのときは再現に努めたいと思います)。

 この企画「知られざる物語」は、文学史や研究で重要視されながらも、これまであまり紹介されてこなかった(物語としても面白い)作品群を翻訳紹介することを目的としています。次回および次々回は、『猫にご用心』の第二部と第三部の訳をお届けして、そのあとにはさらに別の人知れぬ作品をお送りする予定です。どうぞお楽しみに。

【註】
(1)ヴィクトリア朝時代の1851年以降に、ハーバート・F・ホアなる学者が「情報求む」としていくつかの学術誌に古書探求の告知を出しましたが、何年間も空振りに終わったあと、やがて稀覯書オークションのカタログなどを頼りに情報が寄せられ、尚古関係の機関誌(たとえば1859年のアイルランド歴史尚古協会誌や1860年のチータム協会の古典籍書誌)にも抜粋が掲載され始め、少しずつ実在や内容がわかってきたという経緯があります。翻刻としては、1864年にやや不十分な本文のものが尚古家のジェイムズ・ハリウェル=フィリップスによって10部限定で刷られており、そのほか1963年にこれもまた編集の甘い限定版がウィリアム・P・ホールデンによって制作されています。
(2)古い書誌には、初版が1561年だと記されていることもありますが、実物が確認されていないこともあり、後述の研究者リングラーJr.およびキングともども、その説を採用していませんでした。ただし、近年トルーディ・コーによって、少なくとも印刷されたのは間違いないだろうという指摘が傍証とともに出されています。一方で、冒頭の題詩からしばらく日の目を見なかったことは事実だろうと思われるため、印刷はされたがまともに流通しなかった可能性も否めません。詳しくは、Trudy Ko, “Backdating the First Edition of William Baldwin’s Beware the Cat Nine Years”, Notes and Queries, 56 (2009): 33-34.
(3)George Sampson, The Concise Cambridge History of English Literature, Cambridge UP, 1941. 邦訳として、1965年の補筆版が研究社から平井正穂訳で刊行されています。
(4)William A. Ringler, Jr., “Beware the Cat and the Beginnings of English Fiction”, NOVEL: A Forum on Fiction, 12, 2 (1979): 113–26.
(5)John N. King, English Reformation Literature: The Tudor Origins of the Protestant Tradition, Princeton UP, 1982.
(6)Steven Moore, The Novel: an Alternative History, Beginnings to 1600, pbk. ed., Bloomsbury, 2011.
(7)第一部の前半部の抄訳が、ジョン・リチャード・スティーブンス『人間を幸せにする猫の童話集』(池田雅之[訳]、草思社文庫、2018[親本刊行は1999年])に収録されています。そのほか、『イギリス民話集』(河野一郎[編訳]、岩波文庫、1991)にも、昔話「猫の王様」として後代のヴァリアントが採録されています。
(8)William A. Ringler, Jr. & Michael Flachmann [eds.], Beware the Cat: The First English Novel, pbk. ed., Huntington Library, 1995.
(9)Marie Loughlin, Sandra Bell & Patricia Brace [eds.], The Broadview Anthology of Sixteenth-Century Poetry and Prose, Broadview Press, 2011. およびWilliam P. Holden [ed.], Beware the Cat and The Funerals of King Edward the Sixth by William Baldwin, Connecticut College, 1963.

大久保ゆう(おおくぼ ゆう)

1982年生まれ。翻訳家。研究者としての専攻は、翻訳論・翻訳文化史。 16歳から青空文庫に翻訳作品を発表、大学院在学中からフリーランス翻訳家としても活躍。 文芸、サブカル、画集などの訳書や著作権についての批評も手がける。訳書に、スコット・L・モンゴメリ『翻訳のダイナミズム――時代と文化を貫く知の運動』、アーシュラ・K・ル=グウィン『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』等多数。

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