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感じる人びと 第1回 鼻で「感じる」 好況も不況もにおいで見てきたひと

二宮敦人

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Illustration もとき理川

臭気判定士
亀山 直人(かめやま なおと)

株式会社環境管理センター におい・かおりLab

虫は臭いで世界を「見て」いる?

「人間が嗅ぎ分けられるにおいが何種類くらいあるのか、というところからすでに意見が分かれています。30万とか300万とかいう人がいる一方で、1万とかせいぜい5000という人もいる。中には1兆種嗅ぎ分け可能という人も」

「え、1兆種類も? 1億の1万倍ですよね?」

「凄いでしょ。私もね、まさかと思ったんですよ。でも396個の遺伝子が関わっていて、さらに複数の嗅覚受容体が複数の化学物質に反応していることがわかってきた。となると、あれ? 組み合わせを計算してみると確かに、1兆もありえちゃうぞ……と。ただ実際にはそんなに化学物質の種類はないわけで、厳密にはまだよくわからない」

 僕は鼻をこすった。普段何気なく使っているものなのに、思ったよりも奥が深いようだ。

「そして嗅覚はね、最も原始的な感覚ともいわれているんです。要するに化学物質のセンサーですよ。そこにどんな化学物質があるのか、を感じること。実は味覚も似たようなものなので、いったん二つをひっくるめて嗅覚としましょうか。すると、嗅覚がない生命というのは、存在しないかもしれない」

「そうか、化学物質を嗅ぎ分けられないようじゃ、生命としてやっていけないわけですね」

「ちゃんと調べたわけじゃありませんけど、そう考えられます。それくらい生命維持には欠かせない感覚なんです」

 クンクン嗅いでいるように見えなくても、水の中の化学物質を捉えて餌を追いかける魚がいる。土の中のミネラルを嗅ぎつけて根を伸ばす植物がいる。

「犬なんかも凄いですよ。においで相手が誰か、個人の識別ができるんですから。昆虫の触角もそう。あれ、嗅細胞がたくさん並んでいるんです。だからゴキブリなんか、こうやってひょい、ひょいと触角を振り回せば、あたり一面のにおいを嗅げる。このにおいはちょっと時間が経ってるなとか、こっちの方が濃くてこっちが薄いなとか、三次元空間での分布を瞬時に嗅ぎ分けられるそうです。においで世界を『見て』いるともいえますね」

 亀山さんは、何だか触角が欲しそうな顔である。

「いわれて見れば臭いってこう、頭にダイレクトに来る感じがありますね。嗅いだ途端ふらふらと引き寄せられたり、顔をしかめてのけぞったり。感じてから体が動くまでが速いといいますか」

「ええ、そうかもしれません。鼻腔、つまり鼻の穴は、脳に直接繋がっているようなものですから」

「そうなんですか?」

「解剖図を見たらわかりますよ。鼻腔の奥に嗅細胞があって、その奥に嗅球(きゅうきゅう)があってにおいを嗅いでいる。嗅球ってこれ、大脳の一部ですから。鼻の奥と脳はくっついてるんですよ。哺乳動物は、嗅覚からの刺激によって大脳が発達したんじゃないか、という説があります」

「人間は『考える葦』ではなく、『嗅ぐ葦』だと……?」

 亀山さんはうん、と頷いてから目尻を下げた。

「大脳が発達していたから、いろいろ嗅ぎ分けられるようになったという説もありますけど。どっちが先なのかはよくわからない」

 どちらにせよ、頭の中身が嗅覚に影響を受けるのは確かなようだ。

「たとえば記憶ですね。多くの日本人は納豆や焼き魚のにおいは嫌じゃないですよね?」

「むしろ食欲が湧いてくるかも」

「でもそういう食文化がない人たちには不快なこともあるわけです。炊きたてのご飯のにおいも、国によっては嫌がられるそうですよ。イヌイットの人たちもね、キビヤックといってアザラシの腹に海鳥を詰めて、発酵させてから食べる。これは低級脂肪酸のかなり強いにおいがあるんですが、彼らは美味しそうなにおいに感じるそうです」

「そういえばコーヒーも、喫茶店がたくさんできてからはいい匂いだといわれるようになったけど、初めて新大陸で飲んだヨーロッパ人は毒だと思って吐いたとか聞きますね」

「学習によるものが大きいんですよ。納豆もキビヤックもコーヒーも、小さい頃から周りの大人たちが美味しそうに口に入れているのを見ていたら、好ましいにおいだと学ぶ。誰もそうしていなかったら、口に入れると危険なもののにおいだと考えるようになる」

「実際に危険かどうかとは、また別なところが不思議ですね」

「ええ、自分にとって嫌なにおいを出しているものが必ずしも危険なものとは限らない。いいにおいを出しているといって、安全だとも限らない。少なくとも人間は、嗅覚だけで有害、無害を完全に判断するのは難しいのです。先天的、本能的なものを、後天的、学習で得るもの天の得のが上回っているのでしょうね」

「そういえばうちの赤ちゃんは、おならをしてもうんちをしても、全く不快そうにしないんですよ。あれは臭いってことを学習していないんでしょうか」

 うーん、と首をひねる亀山さん。

「赤ちゃんに確かめてみないとわかりませんけど、可能性は大いにありますね。今はまだ、何でも興味の対象として嗅いでいるだけ。大人が鼻を摘まんでうんちをトイレに流しているのを見ているうちに、嫌がるようになるかもしれません」

 待てよ。僕はしばらく考え込んだ。

「じゃあ、恋人の体臭はいくら嗅いでも平気だけど、知らないおじさんの体臭は嗅ぎたくないってのもそうですか」

「ああフェロモンとかね、確かにそうです。あと、おじさんが臭いというのもただのイメージ、先入観に過ぎないんですよ」

 ここだけの話ですが、と亀山さんは声を潜めた。

「おじさんもおばさんも変わらないんです。そもそも加齢臭の原因物質であるノネナールという成分、これ『おやじ臭』なんていわれてますけど、元々女性用の下着を調べていく中で発見されたんですから。口臭もそうですよ。おじさんの口のにおいと、若い女の子の口のにおい、どっちかというとおじさんの方が臭いような気がするでしょう?」

「します」

 即答する。

「そうとは限らないんですよ。ダイエットしてる女の子や、煙草を吸う女の子の方がとんでもないにおいで、驚いたことがあります。呼気を採取してね、検査している私だけが知ってる秘密ですよ」

 物凄い説得力だ。

「そう考えると、スメルハラスメントとか、体臭マナーとか、何だかわからなくなってきますね」

「うんうん。日本人は割と無臭を好む文化といわれていますけどね、体臭みたいな自然なにおいには、少し寛容になってもいいんじゃないかなと思います。制汗剤とか柔軟剤とか、そういったにおいの方が体臭よりも苦手、って人もいると思いますよ」

二宮敦人(にのみや あつと)

1985年東京都生まれ。作家。 『最後の医者は桜を見上げて君を想う』『最後の秘境 東京藝大: 天才たちのカオスな日常』等、幅広いジャンルでベストセラーを発表。著書に『!』『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム「競技ダンス」へようこそ』『ある殺人鬼の独白』『さよなら、転生物語』『ぼくらは人間修行中 はんぶん人間、はんぶんおさる。』等がある。

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